和文化への招待

第十七回よこはま能の会

長崎の郵便配達

「能楽」(能と狂言)はユネスコの無形文化遺産に登録されている世界最古級の舞台芸術。能は謡(うたい・歌や台詞)と囃子(はやし・楽器)に合わせてシテと呼ばれる主役と相手役のワキが能面をつけて演じます。シテの助演者ツレ、狂言方が演じるアイという役が登場することもあります。多くの武将に愛され、650年の長きにわたり絶えることなく存在してきた能という芸術が、いま伝えようとしているメッセージとは。

 

「長崎の郵便配達」の背景

新作能「長崎の郵便配達」の公演情報を耳にして、あれ?と思った方もいらっしゃるのでは。2021年に公開されその後WOWOWでも放映された「長崎の郵便配達」という映画と同じ題名で、「葵上」や「井筒」といったよく知る能のタイトルとは全く異なるものだから。

映画「長崎の郵便配達」のモチーフとなっているのはノンフィクション小説「THE POSTMAN OF NAGASAKI」。著者のピーター・タウンゼント氏は、英空軍の英雄で、英国王ジョージ6世に仕え、その後ジャーナリストとして活躍したベストセラー作家。日本ではその著作より「ローマの休日」として描かれた王女マーガレットとのロマンスのほうが有名かもしれません。氏は戦争被害にあった子供たちへの取材の中で長崎を訪れ、16歳で郵便配達中に被爆した谷口稜曄(すみてる)さんに出会い「THE POSTMAN OF NAGASAKI」を書き上げます。映画は、氏の娘である女優のイザベル・タウンゼントが、本とボイスメモを頼りに長崎でその足跡をたどり、父の真意を探るというドキュメンタリー風のものでした。


7月25日に横浜能楽堂で催される新作能「長崎の郵便配達」は、この映画を元に東西融合の未来を描くもの。戦後80周年平和祈願公演として昨年8月8日に博多で初演、福山、フランスのパリ日本文化会館、佐渡と公演を重ね、横浜で五度目。7月30日には長崎での公演も予定されています。パリ公演はフィガロ紙の全面を飾り、3日間通った観客もでるほどの話題に。6月27日にはドイツ・ハンブルクの音楽祭でも短縮版が上演されるそう。

 


薪能 佐渡諏訪神社 「長崎の郵便配達」公演の一場面。

映画を能という芸術に置き換える意味

しかし、どうやって映画が能に? それは大倉正之助先生と加藤眞悟先生に伺ってみて下さいと、映画監督の川瀬美香氏がPatrasのためにインタビューの場を用意してくれました。

すべては、長崎での映画上映会の露払いに鼓を打っていただきたいと川瀬監督が大倉正之助さんにお願いしたことがはじまり。大倉さんは何度も映画を観るうちに「これは能になる」と感じたのだそう。


大倉「映画を観たときに、なにか運命的なものを感じたんです。とにかくただならぬ想いがある。そこには歴史的な事実も、複式夢幻能の要素もある。これは加藤さんに観てもらって、能にしてもらおうとすすめました。」
加藤「お話をいただいて、たしかに、能にすべき題材かもしれないと、私も思いましたね。最初は映画に忠実に、旅人はイザベラさんなので女性を登場させることも考えていました。」
大倉「芝居要素を強くすると能ならではの広がりや幽玄な時間軸が薄れるなという気がして、普遍的なものにしたいと考えていました。加藤さんはいつ書いていただけるだろうかと思っていたら、突然、おりてきたんです。それからは夢中で、2日で書き上げました。」
加藤「そういう思念が強いから、大倉さんにすーっとおりてきたんでしょうね。ほんとうに。その日は、今日はやっと休みという朝でした。できたから来てって電話がかかってきたんですよ。それで、節付けなど仕上げの作業をやりました。」
大倉「本ができたら、ワキ方の原さんや地謡の長谷川さんがどんどん作品の中に入ってきてくれて、ここはこうしたら?とか、何人かが自発的に関わってくれて出来上がっていきました。だからこれは人間業じゃなくて、ピーターやスミテルさんに上から動かされているんですよ、そうとしか考えられない。」
川瀬「そうなんです。パリ日本文化会館には最初、映画上映の企画でイザベルと動いていたんです。そこで「能もできた」とポロっと言ったら、秋にスケジュールをあけたから、1~2週間でどうするか決めてと。思ってもいない展開になって。」
大倉「ちょうど日本原水爆被害者団体協議会がノーベル平和賞を受賞したのと戦後80年というタイミングでしたし。パリの能公演の観客はほぼフランス人。日本文学研究の第一人者の先生が字幕の翻訳をしてくださったのですが、それが非常に文学的で美しい。会場で、このテキストブックが欲しいという声があがり、それに応えてその場で著作権フリーにしてくださいました。この作品は語り継がれなくてはならない作品ですとおっしゃって。」
川瀬「ふつうはあり得ません。感謝しかないですよね。実際、フィルムではできない世界観を感じました。観客が立ち上がってブラボーと叫んだのには驚きましたし、フランス人の芸術に対する理解力を痛感しました。」
 


みんな燃えたんだ。横浜も原爆の候補地

7月の公演に横浜能楽堂を選んだのも理由があります。取り沙汰されることが少ないものの昭和20年5月29日、横浜大空襲があり焦土と化した歴史が。加藤先生は神奈川県の平塚出身で横浜在住。平塚八幡宮の宮司様の「平塚も空襲で焼け野原になった。それを忘れてはらない。語り継ぐことが大切だ。」という言葉が深く胸に残っているそうです。

加藤「『長崎の郵便配達』はこれまで3回シテを勤めさせていただきましたが、関東での公演は予定されていませんでした。福山で舞っているときに横浜でやるのがふさわしい気がして、実行委員会に相談し、本当は別の演目が決まっていたのですが、急遽変更してもらいました。原爆投下の瞬間に「子供らが白き花びらの如く宙を舞い」というくだりは、涙をこらえながら舞台に立っています。横浜も原爆投下の候補地だったことを知り、戦火に散った人の魂に寄り添いながら勤めさせていただきたいと存じます。」

能公演前の日程での事前講座や映画上映会、トークショーなど次々と企画が広がっているようです。
 


能という芸術の持つ余白

能において演出の核となるのが能面。どの能面を使うかによって衣裳の方向性も決まり、演出のトーン全体が決まってくるのだそう。「長崎の郵便配達」はシテ、ツレともに大月光勲さんによる新作の能面。スミテルさんは東の神、西の神のピーターさんの面は彫が深い西洋人風というのも見どころです。

古典の能は悠久の昔が舞台、どうしても現実離れした幽玄の世界です。ところが「長崎の郵便配達」は80年前の出来事。現代語の能ということになります。そこにはひとりひとりの価値観が存在し、その価値観の中でどう受け取るかは本人に委ねられている。能という舞台芸術のスタイルは型にはまっていてつまらないと思いがちですが、型があるからこその余白を感じ取れる感性を大事にしたい。能鑑賞が初めてという方も、古典芸能愛好家の方も、ぜひ一度ご覧いただきたい演目です。


大倉正之助
能楽師 大鼓奏者
重要無形文化財(能楽)総合認定保持者
文化庁 日本遺産大使
能楽という日本伝統芸能を通し衣食住の生活文化を根底より見直す取り組み「飛天双○能」を主宰。一時期現代社会に苦悩し自然農法に勤しむ事でそれを乗り越え、現在はその経験を活かした取り組み12年一巡りの能「飛天双○能(ひてんふたわのう)」の発想となり「農と能」を結び付けている。
また能楽界初の「大鼓独奏」というこれまでに無い新しい表現を編み出し、世界中の式典などで披露している。能楽以外の様々な分野の表現者との共演も数々ある異彩を放つ大鼓奏者である。

加藤眞悟
能楽師 観世流シテ方 梅若研能会所属
重要無形文化財(能楽)総合認定保持者
1958年生まれ。神奈川県平塚出身。横浜市在住。日本大学文理学部哲学科卒業。故二世万三郎及び三世万三郎に師事。観世流準職分。公益財団法人梅若研能会理事、一般社団法人復曲能を観る会代表理事、公益社団法人能楽協会東京支部著作権関連委員、湘南ひらつか能狂言実行員会顧問、よこはま能の会実行委員会顧問、いせさき能実行委員会顧問、『真田』『伏木曽我』『虎送』『和田酒盛』各復曲検討会代表。平成29年7月より いせさき教育アンバサダーとして子どもたちに能のワークショップを行う。「明之會」主宰。

川瀬美香
映画監督
広告制作会社、米ブロードキャストを経て独立。仲間と ART TRUE FILM を立ち上げる。主な映画作品に「長崎の郵便配達」「あめつちの日々」「」「ちいさな、あかり」、NHK BSプレミアム 失われた色を求めて(2017年)、
Victoria & Albert Museum Channel
In Search of Forgotten Colours – Sachio Yoshioka and the Art of Natural Dyeing
WEB 手鑑 tekagami