アートでつくる静かなる結界
日々の暮らしを包む環境にアートが加わるとき、空間や人のこころはどのように変化するのでしょうか。前回に続き、インテリアデザイナー・原兆英氏が手がける医療空間を通じて、その関係性を探ります。今回訪ねたのは「横浜駅西口歯科」。そこでは、アート作品が緩やかな仕切りとして機能し、不安を抱える方のこころをやさしくほぐし、安心へと導いていました。
こころを切り替える、空間の力
かつて、待合室といえばただ時間を潰す場所でした。しかし、「横浜駅西口歯科」で原兆英氏が目指したのは、それとはまったく異なる体験でした。小さなギャラリーのようにしつらえた待合空間は、訪れる人のこころを自然にほぐし、その一角には、奥の空間へと誘うための装置として、鉄の作家・松岡信夫氏による大型のオブジェが配されています。天に向かって角のように伸びるその造形は、空間に象徴的な気配を添え、ここを“特別な場”へと昇華させました。待合室はアートを従えることで、「過ごす時間」を豊かにする場へと変貌を遂げたのです。

結界が生む、プライベート空間
一方、診察エリアに足を踏み入れると、そこにはさらに細やかな工夫が凝らされています。診療ユニットがオープンにレイアウトされたこの空間は、一見すると開放的ですが、実は繊細な「区切り」が丁寧に織り込まれています。やわらかな曲線を描く壁はユニット同士を緩やかに仕切り、通路へと続く空間には、ワイヤーアーティスト・山田一成氏によるワイヤーオブジェを配置。象や鹿、小鳥などの細い鉄線で象られたオブジェたちは、診察エリアに “見えない結界”を生み出していました。
これらの作品は、空間を遮ることも閉ざすこともありません。むしろ、空気の中に薄い膜のようなものを張るようにして、通る人の意識をそっと切り替えてくれます。そして自然と、「ここから先は自分の空間だ」と感じながら診療チェアへと向かえるのです。それは、完全な個室ではなく、心理的な安心感を生み出す柔らかな領域設定でした。
これらのアート作品は「結界」にとどまらず、ふと目を留めた患者さんが物語を重ねたくなるような存在でもあります。子どもであれば小さな冒険譚を、大人であれば静かな回想に身を委ねたくなるかもしれません。アートは「結界」であると同時に、自然なコミュニケーションのきっかけにもなっているのです。
「完全個室にしてしまうと、逆に圧迫感や孤立感が生まれてしまう。だから、あえて“見えない結界”を感じさせることで、安心と開かれた感覚を両立させ、コミュニケーションも生まれる空間にしたかったのです」(原兆英氏)
こうした設計思想の根底には、日本古来の「鳥居」をくぐる体験が重なっているといいます。境界を越えることで、日常の意識がそっと切り替わる──。そうした深い心理に働きかける仕掛けです。壁の曲線、オブジェの配置、床材の微妙な切り替えまで、空間のすべてが患者さんをやさしく包み、そっと導くよう計算されていました。
待合室から診察エリアには、「待つ時間」から「癒される時間」へ、「外の世界」から「自分だけの世界」へと移り変わる静かな儀式が、確かに存在していました。
iF DESIGN AWARD受賞が示す、空間の新たな価値
アートと空間が美しく調和したこのクリニックは、世界49か国から10,776件もの製品とプロジェクトの応募があった世界三大デザイン賞のひとつ「iF DESIGN AWARD 2022」のインテリア部門において受賞を果たしました。
表層的な豪華さではなく、誰もが自然とリラックスできる設計やこころの流れを促すアートの配置。それらが一体となった空間は、訪れる人々に深い安心感をもたらし、歯科医院という枠を超えた「体験の場」としての新たな役割も得ました。
医療空間という限られたジャンルにおいて、このクリニックが世界的なアワードを受賞したという事実は、「アートで患者さんのこころを動かす」という原氏の設計哲学が国際的に評価されたことも意味しているのです。
空間が変われば、人も変わる
原氏はこう語ります。
「空間は人のこころを変えてくれます。だからこそ、患者さんだけでなく、スタッフの意識もまた、空間によって変わっていくのです」
実際、このクリニックでは、空間の変化によってスタッフの表情や対応にも明るさが生まれ、衛生士の採用にも良い影響があったといいます。
良い空間は、患者さんに安心を、そしてスタッフに誇りをもたらします。そして、それが巡り巡って、クリニック全体の活力となっていくのです。原氏の空間設計は、その本質を静かに、しかし確かな力で体現しているのです。